抹茶と坐禅:西田幾多郎記念哲学館

毎月一回、「抹茶と坐禅の会」をしています。約20年透析をされている人で、病気になって、「なぜ自分が病気になったのか?」と悶々と生きながら、死について、真理について探求されている先輩です。その人のご自宅に伺って、抹茶をいただき、そんな話をして、ちょっと体操をして、それから坐禅をしています。

昨年の秋は、一緒に金沢の鈴木大拙館に行きました。そして先週は、石川県かほく市にある哲学の杜、「西田幾多郎記念哲学館」に行ってきました。『善の研究』を数ヶ月前に購入したのですが、ずっと鞄の中に入っていて、鞄に忍ばせながら、かほく市に車で向かいました。

ふりかかる苦悩の連続と
ひたすら座り続ける禅の実践。

彼の経歴のビデオを見たのですが、姉、弟、娘二人、長男と次々と家族との死別に会い、いくつもの学校を渡り歩き、でも禅の実践を自分の生活の中心におきながら、生きぬいた。その苦悩と禅の人生の結晶が「西田哲学」となったのかと感じました。初めてみる西田幾多郎氏の写真は、肩の力の抜けて、まっぐに前を見つめている姿勢がとても印象的です。

哲学とは、「知ることを愛する」ということ。
それは、情報を増やすことではありません。
哲学は、自ら、迷い、考え、真実を追い求めることです。
すぐに分かる必要はありません。
哲学は、ひとことで言いあらわすこともできません。
自分で歩き、立ち止まり、また来た道を戻ってください。
すぐに答えを求めず、考えながら、ゆっくりと。
(西田幾多郎記念哲学館より)

苦悩について、答えを求め続けても、何も見えてこない。
苦悩について、情報を増やしても、苦悩はなくならない。

経験するというのは事実そのままに知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従打て知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫も思慮分別も加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。『善の研究』

苦悩について、
純粋経験に出会う。

自らの置かれた状況(苦悩)を迷い、
苦悩に向き合って考えて、
苦悩と共に生きるという
真実を追い求めることでしょう。

帰り道の高速道路のサービスエリアで
ソフトクリームをいただきました。
先輩は、ソフトクリームを
「美味しい」「美味しいね」
と食べていました。

久しぶりに食べた。
久しぶりにここに来た。
いろいろと変わっているね。

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