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カトマンズでヴィパッサナー瞑想 2015年01月10日-01月27日

14日〜25日まではヴィパッサナー瞑想に参加しました。期間中は朝4時に起床し4時半から21時まで座り瞑想が続きます。

瞑想の目的は「ただいまの私」を「ありのまま」に経験すること。しかし瞑想をしていると「ありのまま」を邪魔するものが出現する。3つの感覚。心地よい感覚。心地わるい感覚。よくもわるくもない感覚。このいずれからの感覚が流れており、その流れに身を任せている限り、「ただいま」と「ありのまま」は、どこかに消えてしまう。

瞑想の前半の数日は、鼻先の感覚に意識を常におくようにします。自分の居場所が鼻先だけになります。座り、背筋を伸ばし、手も動かさず、目を閉じる。一時間、二時間、三時間と一日目、二日目と進むと心は混乱してきます。いつもは、携帯の音が聞こえれば、いそいで応答し、目の前に異性が通り過ぎれば判断し、身体は痛みがないように自由に動かしている。「心のありのまま」の状態が出来ない!瞑想中は心に対してあれこれと騒がずに鼻先にだけずっといろというのだ。

心はなんとかして、そこから脱出を試みる。記憶を引き出し、欲望をつかませ、未来を思う。

三日目、四日目になると、誰とも話をせず、朝4時半から21時まで座ることが日常になる。心が、ああ確かいつもそうやってたかな?と勘違いするようになる。身体も座ることだけやったかなと、動かなくなってくる。そして「ただいまのありのまま」が主人になる。しかし時折「心のありのまま」が、顔を出す。そしていつの間にか、過去の私と未来の私にすり替えるのだ。なんと巧みなテクニシャンだろう。すり替えられたとき

あらわれて、きえる。

と気づき、集中する。あらわれて、消える連続性しかないことを理解する。心のありのままが過去や未来や願望にピョンピョン跳ねていたように、身体の感覚を頭の先から足の先まで自由に移ることができる。新幹線「ひかり」よりも早い「のぞみ号」。

七日目、八日目になると、再び、心がざわついてくる。瞑想合宿が終わったら、帰りの航空券の確認が必要だとか、成都のホテルはちゃんと予約がとれているのだろうかとか「心のありのまま」があらわれる。でも鼻先に座りなおすと「ただいまのありのまま」に戻ることが出来る。

何とか鼻先に座っていると、映画の予告のように強烈な印象が飛び込んでくる。それは絶対にみなくちゃいけないもので、忘れてはいけないものだと心はざわつく。

あらわれて、きえる。

あらわれてくるものは、私がずっとずっと握りしめているもの。離したことなど一度もないもの。でも、ちょっと離してもいいかと離してみると、そのほうが良かったかもと理解する。

こうやって、「心のありのまま」を一つあらわれてきえる。一つあらわれてきえる。と理解していくことが心の汚れをはぎとる行為になる。フロントガラスに降り注ぐ雪をワイパーでカチャ。カチャと、はらう。鼻先に座ってそうやって、あらわれてきえる。あらわれてきえる。とはらう。

視界良好。

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感覚には三種類ある。心地よい感覚、心地わるい感覚、そして中立の感覚である。それらの感覚はすべて無常であり、集合体であり、条件づけされており、かならず衰え、弱まり、うすれ、消えてゆく。この現実を見抜き、正しい指導を受けて「聖なる道」をすすむ者は、心地よい、心地わるい、あるいは中立の感覚に対して心の平静さを保つことができる。心の平静さをはぐくむことによって執着を捨てることができる。執着を捨てることによって心のは自由になる。『ディーガナカ・スッタ』

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