坐禅 2015年12月26日

7日間、禅堂にて坐禅をしてきました。坐る・食べる・寝るとすべてを禅堂の畳一畳にて行います。朝2時から夜21時までの予定はすべて坐禅。一回の坐禅は約3時間。休憩は各自で行い、私は1時間に一度くらいしていました。

午前2時に鐘が二回なるとムクッと起き上がり、布団を丸めて、壁の備え付けの棚の中に押し込みます。そこに座布団を引くと寝室から坐禅会場に早変わりします。そして坐禅の始まり。

「動かない」という姿勢を3時間続けるのはとても苦痛。足がしびれ、股関節周辺が伸びるように痛み、膝が崩れるようになって立てなくなります。「安定して快適な姿勢」が坐るときのガイドになりますが、何を持って安定とするのかがとても難しい。背骨を伸ばすこと、骨盤を意識すること、呼吸を意識すること、などなど、坐りながら、あれこれやってみるのですが、坐禅が終わると、身体が痛いし、心が疲れていて、不安定で不快な姿勢。

「動かない」という心になることは苦痛。妄想や記憶が常に活動していると、心を動かさずに「無」になるということはできません。しかしあるタイミングで心が妄想や記憶に対して気にならなくなり、禅堂の空気や身体の呼吸のリズムと同期がとれるようになります。「心の対象を妄想や記憶、感覚ではないものへ委ねる」。禅堂には「正法」というベクトルがあり、そのベクトルへ意識を統合することに努めました。そうすると身体と心が素直になり丁寧さが生まれる。動かないことに抵抗しなくなります。

明け方、坐っていると、冷気が畳の上から膝、腰から背骨に上がってきました。と同時に、眠気が身体を覆っていきます。その時に冷えた空気が禅堂に入り込むのと同じベクトルを意識が持つことで、身体と心に対する認識の仕方が変わる。

丁寧に息を吸いこむ。
丁寧に息を吐く。

素直に丁寧なった姿勢からは、息を吸うと、満ち足りた空気が入り、空気が全身に広がる。息を吐くと満ち足りた身体から空気が外に広がる。

食事は食べ方があり、弁当箱(応量器)のようなお椀を開封するところから始まり、並べ方、持ち方、箸の置き方、食べ方、おかわりの仕方、洗い方、しまい方まで、「型」がある。この型にそっていただくと、美味しい。素敵。塩辛い。といった味覚の反応、心の反応が消えて、玄米、味噌、豆、大根が持つ「いのち」の反応に気づき身体が元気になる。ご馳走様。感謝。

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休憩室にかけられたカレンダーを眺めながら、休憩のひととき。随処に主となる。

「随処に主と作れば立つ処皆真なり」。どの道を生きようとも、常に自分の本心を忘れず主体的に生きるならば、そのよって立つ所はすべて真実の道に通じる、という臨済宗の始祖・臨済義玄の言葉。随は、したがう。なるにまかせるの意。随処は随所で、与えられた所、自分が選んだ道にしたがう、適応して積極的に生きるということ。『臨済録』示衆。立処皆真。随処為主。【出典】
日本実業出版社(著:真藤 建志郎)「 四字熟語の辞典 」

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