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我慢と忍耐

朝、息子と一緒にヨーガをしているのですが、息子はスキをみては、テキトーにやろうとします。そこで、お店に子供と一緒にいくと、「これ欲しい!」と訴えることがあります。欲しい欲しいという心の状態です。親は子供が欲しい物をみて、もしくは見もせずに「いま、必要ないでしょ!我慢しなさい!」と拒否する怒りの心の状態で答えます。欲しいという欲求(貪り)・欲しくないものを拒否する(怒り)をどのようなプロセスで自分自身が理解したらよいのでしょうか?

仏教の言葉では、我慢とは我を張るということであり、慢とは他人と比較して思い上がることを言います。

我慢(がまん)とは、仏教の煩悩の一つ。強い自己意識から起こす慢心のこと。四慢(増上・卑下・我・邪)の1つ、また七慢(慢・過・慢過・我・増上・卑劣・邪)の1つ。仏教では人間を固定的な実体として捉え、自己に執着(しゅうじゃく)することを我執(がしゅう)といい、その我執から、自分を高く見て他人を軽視する心をいった。現在、一般的に自分自身を抑制し、また耐えるという意味あいで「我慢する」などと使われるが、これは、もともと「我意を張る」などという強情な心意を介した転用で、近世後期から言われるようになったとされている。(wikipediaより)
慢(まん、Skt:Māna)は、仏教が教える煩悩のひとつである。他人と比較して思い上がることを言う。俗に我慢といい、我が身をのみ頼みて人を侮るような心を指す。倶舎論では八不定地法(尋・伺・眠・侮・貪・瞋・癡・悪見)の1つ、唯識論では六煩悩(貪・瞋・癡・慢・疑・悪見)の1つとする。(wikipediaより)

忍耐。耐え忍ぶということは、我慢と似たようなニュアンスに思えますが、仏教においては「忍」とは、「許す」「忍」という意味です。また、忍を意味する言葉として懺悔(さんげ)があります。

仏教において懺悔(さんげ)とは、自分の過去の罪悪を仏、菩薩、師の御前にて告白し、悔い改めること。本来はサンスクリット語で「忍」の意味を持つ。半月ごとに行われる布薩では地域の僧侶が犯した罪を告白し懺悔するほか、自恣という僧侶同士が互いに罪を告白しあう行事もあった。 また、懺悔文という偈文があるほか、山岳修験では登山の際に「懺悔、懺悔、六根清浄」と唱える。(wikipediaより)

私たちの心はいつも欲求を求めたり、嫌いな物を拒否して怒ったりといつも心はネガティブな状態です。欲求や怒りといった心を許し・忍ぶ状態を懺悔といいます。苦しさに耐え忍ぶ忍耐の実践において心はニュートラルになり、穏やかになっていきます。

懺悔文という偈文(げもん)があります。

我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)

私が造ってきた、これまでの悪いことは
遠い遠い昔から持っている貪りと怒りと無知という状態によるもの。
そのような状態にあって、身体で行動したり、言葉を使い、心で思いをなしてきました。
これらのすべてを今、許し、そして忍びます。懺悔します。


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