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カトマンズでヴィパッサナー瞑想 2015年01月10日-01月27日

瞑想を始めて8、9日目。意識を安定して鼻先に留めるようにして、そして意識を頭頂部から足先までスキャンする。身体は動かさず、頭、おでこ、眼球、鼻、耳、口、足首、足の甲、足の裏と意識を巡らす。その時、感覚が生まれる。気持ちいい。痛い。固い。感覚に立ち止まるのではなくて、そのまま感覚にも気づきながら傍観者になる。そうするとまた、次の感覚が生まれる。そうやって、生まれては消える。生まれては消えるという感覚の隣にいること続ける。

瞑想者は自分のからだのなかで、心地よい、心地わるい、あるいは中立の感覚が生じたとき、「わたしのなかで、心地よい、心地わるい、あるいは中立の感覚が生じた」と理解する。それはなにかに由来する。原因がないわけがない。なんに由来するのか?まさにこのからだに由来するのだ」このようにして、彼はからだのなかの感覚の無常性を観察しつづける。『パタマ・ゲーランニャ・スッタ』

「触」という感覚だけでなく、映画のスクリーンのように目の前に鮮やかな「眼」のイメージという感覚が広がる。「生まれて消える」という感覚•ありのままの隣にいること。私という心と身体という器の中身が一つ一つ浮き上がってくる。これが私なのか。そうだこれが私か。忘れていたこれが私だった。と一つ一つ手放して諦める。

空にはさまざまな風が吹く。東から西へ吹く風、北から南へ吹く風、ほこりっぽい風、きれいな風、冷たい風、熱い風、はげしい風、そよふく風、じつにいろいろな風が吹く。それを同じように、からだのなかには心地よい感覚、心地わるい感覚、あるいは、そのどちらともつかない中立の感覚が生じる。瞑想者は熱心に修行し、完全なる理解の能力をおろそかにしない。そのような賢者はありとあらゆる感覚に気づいている。ありとあらゆる感覚に気づいているとき、彼はまさに現世ですべての汚れから自由になる。そのような人はダンマのなかで確立し、完全に感覚を把握し、いのちが尽きるとき条件づけされた世界を超え、言葉では表せない境地に到達する。『パタマ・アーカーサ•スッタ』

ただいまがある。
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10日の瞑想を終えて翌日、パタンに観光に出かけました。その日はネパールでは立春にあたり、寺院にてサラスヴァティーを祀られていました。

サラスヴァティーとは日本では七福神の中の弁財天のことです。私が17歳の時に仏教に出会い、修行した寺は弁財天が本尊でした。ネパール滞在最期にサラスヴァティーに出会えたことは、私にとって驚きと感謝でした。



導かれている。
生かされている。
私はただ、いまここにある。
「ありのまま」に。

ありのままの現実を見ることが、彼の正しい見方になる。ありのままの現実を考えることが、彼の正しい考えになる。ありのままの現実に向かって努力することが、彼の正しい努力になる。ありのままの現実に気づくことが、彼の正しい気づきになる。ありのままの現実へ精神を集中することが、彼の正しい精神集中になる。彼のからだの行為と言葉の行為、およびその生活が真に浄化される。このようにして彼は「聖なる八つの道」を歩みつづけ、最終ゴールを目指すのである。『マハー・サラーヤタニカ・スッタ』



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